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SHORT STORY

​ウォッチ・ミー

「タナボタ、ですか?」
「違うわ。七夕よ。今日は7月7日でしょう?」

 

 ある小さなオフィスの一角で、若者が聞きなれない言葉に首を傾げていた。
 上司にあたる女性の呟いた言葉は、彼にとってあまりに馴染みのない言葉だったのだ。

「たなばた……聞いたことがありませんね」
「そうでしょうね。日本の風習なの」

 所はイギリス。場所はロンドン。
 生粋の英国人の彼にとって日本の七夕という風習を当然知っているわけがなかった。
 対して話している上司の女性も、顔立ちからすると東洋人の香りなどは少しも匂わせていない。

 彼女はどちらかというとロシア系の血が混ざっているはずだと、部下の彼でなくてもこのオフィスの多くの人が既に知っていた。

「よく御存じですね。ああ、そういえばミス・エリツィナは日本に留学していた時期があるのでしたね」
「ええ。その時に教えてもらったのよ」

 女性の部下である彼は、少なからずこの上司に興味を持っていた。

 正しく言うならば、淡い恋心のようなものである。
 だが、どうやら恋愛関係に対して全く興味のなさそうな彼女の様子を見て、叶うことはないのだろうと最近は諦め気味ではあった。
 それはともかくとして、そうやって生まれた好奇心は彼女の来歴のこともしっかり覚えていたのだった。

「それで、そのタナバタというのはどんな風習なんですか?」
「ある昔話がもとになっているのよ」

 単に聞きなれない慣習が気になり問いかけてみた所、彼女はあっさりと答えてくれた。
 曰く、さる天女と働き者の若者が恋をしたが、2人は夫婦になってから全く仕事をしなくなってしまった。
 それに怒った天女の父が、2人を天の川の両端に追いやり、普段は会えなくしてしまった。
 けれども、1年に1度の7月7日だけは2人が会うことを許したのだということだった。

「……それで、1年に1度しか会えなくなった恋人たちが、1度だけ会うことができる日。それが今日というわけ。今日は笹に短冊という紙を吊るして、人々は願い事を書いて願いを叶えてもらおうという日でもあるのよ」

 彼女は立てていた人差し指をおろし、解説を終わらせた。
 よくあるおとぎ話の1つに過ぎないのだろうが、その話をもとにお祭りが行われるのは面白いものだと彼は思う。

「ロマンチックな話ですね! それにあやかって、願いを叶えてもらおうというのも、何とも、人間らしいというかなんというか」
「そうでしょう? でも、子供たちがあれこれ自分の願いを叶えてもらおうと笹に短冊を吊るしている姿は微笑ましいものよ」

 ただ他者の幸せを願うだけでなく、自分たちの要望を叶えてもらおうという風習に繋がるのは、どこか「それらしい」と思わせるものがあった。
 だからこそ、現代においてもはっきりと物語や風習が伝わっているのだろう。

「クリスマスにプレゼントをねだる子供たちのようですね」
「そうそう。それに、大人だってたまにはお願いをしてもいいと思うわ」

 くすりと笑ってみせる彼女の横顔は、日々仕事を切り盛りしている才女の顔とは対照的に少し子供じみて見えた。
 気取りすぎない程度の化粧に、やや吊り上った形の瞳と妖艶さも垣間見せる面差し。

 織姫とやらが東洋の美女というのなら、さながら彼女は西洋の織姫だろうと贔屓目に彼は思う。
 そんなことを考えてることは露ほども見せず、彼は会話を続けた。

「はは、違いない。それで、ミス・エリツィナは何をお願いされるのです?」
「私? 私はそんな不確かで非効率なお願いごとをする暇があったら、自分でやりたいことのために努力をする方が建設的だと思う人間よ」
「おおっと。これまた非常に現実的なお言葉だ!」

 さすが、やり手の我が上司──アナスタシア・エリツィナは言うことが違うと彼はわざとらしく驚いてみせる。
 実際、彼女がこの手の類の根拠が不確かなおまじないに興じる姿は見たことがない。女性なら目を通しがちな占いの類に、足を止める様子も全くないぐらいだ。

「だから、ミスター・ミュラー。今日が締め切りのはずの原稿が届いていないことについては、天の川の向こうの2人にお願いしても延長する気はないと言っておくわね」
「こりゃー手厳しい!」

 にっこりほほ笑んだ彼女の笑みは、どんな美辞麗句を使っても表現し足りないほど美しいものだった。
 けれども、告げられた内容は、十分すぎるほど辛辣なものだ。
 彼女は美しいだけでなく、仕事に対しては容赦しないということは彼も数年の付き合いで十二分に把握していた。

「はいはい、さっさとやってきますよー」

 故に、無駄口はここまでにする。彼は、ひらひらと手を振り自分のデスクに向かって戻っていった。

***

 いそいそとやってきたかと思ったら、慌ただしく去っていった部下の後ろ姿をアナスタシアはにこにこしながら見送る。
 笑いつつ、彼女は内心で首を傾げていた。
 一体、彼は何をしに来たのだろう。

 必要な書類なら全て彼の元に送り届けたし、今の会話に生産性が上がる要素はあったと思えない。寧ろ、時間を悪戯に消費しただけのように思う。
 効率の悪いことを、何故率先して行うのかが分からない。

 そこまで思いかけて、彼女は小さく頭を振った。

「──いいえ。対人関係の構築も、結果的に最善の手段に至る道筋になる……ということよね」

 考えを改めて、デスクでコンピュータに向き直った彼を見る。
 時間を徹底的に管理し、不必要な会話は行わず、効率を突き詰めていけば良い結果が生まれるというのは彼女の基本的な考え方だ。
 けれども、それだけでは人は動かないということを彼女は既に知っている。
 そのことを教えてくれた人が、彼女の隣にいたからだ。
 今はそこにはいない人の面影を思いつつ、彼女は視線をデスクの付箋に落とす。

「そうね。確かに自分にできることなら、星の向こうのいるかいないか分からない存在に祈ることは無意味なのでしょうけれど」

 先ほど口にした言葉を反復する。

(でも、自分にできないことを祈るのは──非効率、とは言えないのかもしれないわね)

 元々、叶わない願いだからこそ人は星に祈るのだろう。
 才能を伸ばしたい、頭がよくなりたい、聡明になりたい、誰かに認められたい、といった願いの数々を昔から空の果てに祈ったのだ。
 だから、この願いもきっと多くの人が記したのだろう。
 彼女はペンを手に取り、付箋にさらさらと自分の願いを綴った。

『Please, watch me』

 どうか、あなたが私を見てくれますように、と。

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